皆さんこんにちは。
写真とカメラの歴史について皆さんはどのくらいご存知でしょうか?
そこで今回は写真とカメラの年表を作ってみましたので、ご紹介したいと思います。
■写真とカメラの歴史年表
※諸説あるものや、確実な文献が残っていないものも含まれるため、その点にご留意ください。
- 1700年以前:写真や写真機が本格的に発明され始める以前から、カメラの原型となる「カメラ・オブスクラ」と呼ばれる装置が存在し、絵画や天文学の世界で利用されていた。「カメラ・オブスクラ」とは「暗い部屋」という意味で、最初に「カメラ・オブスクラ」という言葉を用いたのはドイツの有名な天文学者であったヨハネス・ケプラー(1571年12月27日 – 1630年11月15日)とされている。しかしカメラ・オブスクラという名称が使われる以前から同様の原理をもちいた様々な装置があり、現在わかっている最古のものでは、中国の春秋時代(紀元前771年〜)に活躍した思想家集団である墨家(ぼくか、ぼっか)の開祖であった、墨子(ぼくし)が「穴を通った光が倒立した像を結ぶこと」について述べている。その後、東西でさまざまな国でカメラ・オブスクラが絵画や天文学などの用途で作られ、これが今日の「カメラ」の語源となった。しかしまだこの頃は「小さな穴から投影された景色が倒立像を結ぶ」ということや、それが長期間続くと壁などに焼き付くことがあるということはわかっていたものの、像を記録する技術がなかったため、基本的にはカメラ・オブスクラは投影された像をリアルタイムで見ることが目的として作られていたため、カメラ・オブスクラはカメラの源流ではあるものの、一般的にはいわゆる「写真機」の歴史には含まれていない。
- 1717年:ドイツの科学者であったヨハン・ハインリヒ・シュルツェが、陽のあたる窓枠に置いていたガラス瓶に入れた硝酸が変色していることに気付いた。その硝酸はすでに使用済みのもので、硝酸銀が含まれていた。シュルツェは実験によって変色の原因を見つけようとした。当初この反応が太陽の光によって生じたものなのか、熱によって生じたものなのかは、はっきりしていなかったが、シュルツェは硝酸銀を窯で加熱しても黒く変色はしないことを突き止めた。つまり「変色の原因は熱ではなく太陽の光である」ということが分かったのである。そこでシュルツェは、硝酸銀の入ったガラス瓶の一部を不透明な素材で覆って日光に晒すといった実験を行い、日光の当たった部分が変色したことから、塩化銀の感光性を明らかにした。
- 1724年:シュルツが行なった実験により、塩化銀やハロゲン化銀などの銀化合物の一部が感光すると色が変わるということが一般に知られるようになり、玩具として遊びに使われるようになっていた。しかし、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせるという発想はまだなかった。そのため今日の写真機のようなものではなかった。
- 1822年:シュルツが銀化合物が感光することを発見した約100年後、フランスの発明家、ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが光で像を記録する研究を始めた。ニエプスはもともと石版画制作に興味を持っており、やがて手で彫るのではなく光で自動的に版を作る方法を模索したのがきっかけであった。当初ニエプスが研究したのは、石油の派生物であるユデア(アスファルトの一種)を磨いたシロメ(錫のこと)の板に塗布し像を描くというもので、ユデアは光に当てると硬くなって水に溶けなくなるため、これを使って印刷用の原版を作ろうとした。彼はこれをカメラ・オブスクラに装填して自然の映像を定着させることを思いついた。その後ニエプスは試行錯誤の末、シュルツの発明に基づき、銀化合物を使った実験を始めた。ニエプスが初めて写真撮影に成功したのは、同年1822年、ローマ教皇ピウス7世の肖像を写したものとされているが、その原版はニエプスが複製を作ろうとしたときに破壊してしまったとされており残っていない。
- 1825年:この年、ニエプスが原版が現存する世界最古の写真となる「馬引く男(Un cheval et son conducteur)」の撮影に成功した。原版が現存しているという点において、この1825年が「写真の歴史の始まり」と言えるかもしれない。ちなみのこの「馬引く男」の写真は2002年3月21日にサザビーズに出品され、44万3,000ドルで落札されている。
- 1827年:この年ニエプスは自宅の窓の外を写した「ル・グラの窓からの眺め」という写真を撮影しているが、この時の露光時間は8時間から20時間の間と推定されている。
- 1829年:ニエプスはより簡便な写真撮影を実現するべく、舞台背景画家として活躍していたルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと協力し、光で化学反応する銀化合物を使う研究を行った。
- 1833年:ニエプスが脳卒中で急死する。そしてニエプスの研究はダゲールに引き継がれた。ダゲールは化学の研究を進め、銀をヨウ素蒸気にさらしてから露光し、その後水銀の蒸気に当てることにより、隠れた像を作ることができることを発見した。これが潜像であり露光時間の短縮に役立った。また、こうしてできた板を塩水に漬けると像を固定(定着)でき、それ以上光にさらしても変化しなくなることを発見した。
- 1839年
- ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは銅板にヨウ化銀を乗せた方式を用いたカメラを発明、これにより、カメラの発明者はダゲールとなった。このカメラを「ダゲレオタイプ」と呼んだ。ダゲレオタイプは、銀メッキした銅板を鏡面に磨き上げ、ヨウ素蒸気に晒して表面にヨウ化銀の膜を形成し、これを日光などに当たらないようにカメラへ取り付けて撮影するもので、撮影した銀板を水銀蒸気に晒すことによって、目に見えなかった撮影済みの画像を目に見える画像にすることができるようになる。ただし当時のダゲレオタイプではのちの後のフィルム写真のように撮影画像を印画紙にものではなく、撮影した銅板そのものを前側から鑑賞するものであった。撮影された像は上下左右逆像で銅板の前に露光されるため、上下はひっくり返せば正立像になるものの、左右は鏡像のように反転した状態となっていた。また定着現像してできた像は、放って置くと感光が進んで崩れてしまうため、初期の方法では食塩水を用いて定着させていた。のちにイギリスの天文学者であったジョン・ハーシェルによってチオ硫酸ナトリウムを用いる方法が考案された。ちなみに写真の「ネガ・ポジ」という言葉を発案したのもハーシェルである。
- ダゲレオタイプは1839年1月7日のフランス化学・芸術アカデミー席上で発表され世界にセンセーションを起こした。その後ダゲールはカメラの特許を同年3月19日に取得し、その3月19日が今日でも「カメラ発明記念日」とされている。
- ダゲレオタイプの発明に基づく特許がフランス政府によって買い上げられ、誰でも無償で自由に使用できる旨を宣言した日が1839年8月19日であったことから、8月19日が海外では「写真の日」とされている。
- 1839年もしくは1840年、ニューヨーク大学のワシントン・スクエア・スタジオでジョン・ウィリアム・ドレイパー博士が妹のドロシー・キャサリン・ドレイパーを撮影している。この写真はダゲールが発明した湿式の銀板写真を使って撮影された世界初のポートレイト(肖像写真)とされている。写真そのものはドレイパーの息子ダニエルが1893年にイリノイ州で写真を展示するために複製されたものが今日も残っているが、1839-1840年に撮影されたとされている原版は1930年代初期、復元を試みた際に損傷を受けて永久に失われてしまった。
- 1840年
- ダゲレオタイプの登場により肖像写真の流行が起こる。当時写真(フォトグラフ)はヘリオグラフィ(太陽で描く)と呼ばれていた。
- フランス大蔵省の役人であったイポリット・バヤールも独自に紙と銀化合物を使用したカロタイプに似た写真技術を開発し、1839年ごろには撮影に成功したが、発表が遅かった上、ダゲレオタイプの普及と研究を推進するアカデミーに無視されたので、最初のカメラ発明者として認識されていない。1840年、彼は抗議の意味を込めて、身投げして溺死した人体に扮装した自分自身を撮影して公表した。これは世界初のセルフ・ポートレイトとされている。
- 1841年:イギリスの科学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが史上初のネガ – ポジ法であり、複製が可能な撮影法を編み出した。これは「カロタイプ」と名付けらた。カロタイプはギリシア語の(Kalos 、美しい)から名付けられた。先んじて登場していたダゲレオタイプ対し、カロタイプは原理的な理由からポジ画像を得る際に紙に複写する工程があることから、シャープさではダゲレオタイプに劣るという面があったが、ダゲレオタイプが撮影原板をのものを鑑賞するものであったのに比べ、カロタイプは写真を複製できるという大きなメリットがあった。実はタルボットが撮影した写真の中で一番古い写真は1835年に別荘の書斎の窓から撮影されたもので、現在でもロンドンのサイエンス・ミュージアムにある。タルボットは、この原理をルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプを発表する1839年より以前の1835年8月に発明していたが製法を秘密にしていた。ダゲールがダゲレオタイプを発明し1839年に発表したのを聞いて急いで報告書をまとめ、写真発明の優先権を主張したが認められず、カメラの発明の名誉をダゲレオに取られる形となった。 当初ダルボットのカメラはネガ像を撮影するもので、明暗が逆転したネガフィルムのような写り方であったが、その後ネガティブ像を複写することでポジティブ像を得ることに成功し、ネガ – ポジ法を完成させて1841年にイギリスで特許を取得した。そのため、ダルボットの「カロタイプ」が正式に発明を認定されたのは1841年となった。
- 1843年:オランダ船により長崎に日本に初めて写真機材(ダゲレオタイプ)が持ち込まれた。長崎の御用商人であった上野俊之丞(うえの としのじょう)が記録したとされる写真機の寸法を付したスケッチが現存している。この時は、機材はオランダに持ち帰られている。
- 1844年:カロタイプを発明したダルボットは1843年に写真工房を作り、複製能力を生かした写真集の出版を開始し、1844年に出版した「自然の鉛筆(Pencil of Nature )」世界初の写真集となった。
- 1848年:1843年に一度日本に来たもののオランダに持ち帰られたダゲレオタイプが、この年再び銀板写真器具一式と共にオランダ船に因って長崎に持ち込まれ、上野俊之丞から薩摩藩第11代藩主であった島津斉彬(しまづ なりあきら)の手に渡った。
- 1851年:島津斉彬のもと、蘭学者である川本幸民(かわもとこうみん)と薩摩藩士の市来四郎(いちき しろう)らが銀板写真の研究を始める。
- 1851年:イギリスの銀細工職人であったフレデリック・スコット・アーチャーが、ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布したガラス板を硝酸銀溶液に浸してヨウ硝化銀の感光膜を作るという、いわゆる「湿板写真」を発明した。これにより当時のダゲレオタイプカメラが数分から数十分かかっていた露光時間をわずか数秒に短縮することに成功し、湿板写真は瞬く間に広まっていった。しかしアーチャーは敢えて湿板の特許を取得しなかったため、彼は貧しいまま亡くなり、死亡記事では彼を「健康状態が悪い非常に目立たない紳士」と表現した。アーチャーは1857年05月01日に肝臓疾患で亡くなりロンドン のケンサルグリーン墓地に埋葬されている。
- 1852年:医家の飯沼慾斎(いいぬま よくさい)、大鳥圭介(おおとり けいすけ)、佐久間象山(さくま しょうざん)らが銀板写真の研究を始める。
- 1854年:ペリー艦隊の従軍写真家エリファレット・ブラウン・ジュニア(Eliphalet Brown Jr.)が日本上陸、風景や地元住民を撮影した。それらの写真は所蔵していた博物館が火災に遭い焼失してしまったが、ほぼ同時期に撮影した「田中光儀像」「黒川嘉兵衛像」「遠藤又左衛門と従者像」などが残っており、それらが現存する最古の日本人の肖像写真となる。
- 1857年:9月17日、市来四郎らが島津斉彬を銀板写真での撮影に成功し、これが日本人が撮影した現存する最古の肖像写真となっている。以前はこの写真が撮影されたのが1841年6月1日と考えられていたため、日本写真協会が6月1日を「写真の日」とした(1951年制定)が、その後間違いであることが判明し、正しくは、島津斉彬が撮影されたのは1857年9月17日であることがわかった。ただ「写真の日」は「一旦定めたこと」という理由から、現在でも6月1日のままになっている。
- 1860年:アメリカの写真家、オリン・エラスタス・フリーマンが横浜に日本で最初の写真スタジオを開設した。フリーマンは元々は中国上海で写真館を経営していたが、1860年に横浜で移住し、日本最初の写真館を開いた。
- 1861年
- フリーマンのもとを常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)士の息子であった鵜飼玉川(うかい ぎょくせん)が訪れ、写真術を学び機材一式を購入、同年、江戸薬研堀(えどやげんぼり)で日本人による初の写真館となる「影真堂」を開業した。これによって、鵜飼玉川は日本人初のプロフォトグラファーとなった。
- トーマス・サットンによって世界初の一眼レフが考案された。それ以前のカメラは像面にフォーカシングスクリーン(ピントグラス)を取り付けてレンズの操作を行った後、その場所にスクリーンと交換する形で感光材料を設置するという、いわゆる大判カメラのスタイルであったが、サットンは光路上に可動式の鏡を取り付けカメラボディ上面のスクリーンに像を結ばせるという工夫をし、これにより撮影直前まで像を見つづけることができるようになった。しかしサットンの一眼レフは木製でかなり大きく、現在のような一眼レフとは見た目にもかなり異なるものだった。
- 1862年
- 下岡蓮杖(しもおか れんじょう)が写真家であり貿易商でもあるジョン・ウィルソン(John Wilson)から機材を譲り受け、横浜で写真館を開業した。日本初の写真館を開業したオリン・フリーマンも横浜で開業したこと、下岡蓮杖が横浜で日本人としては鵜飼玉川に次いで2番目の写真館を開業したことで、横浜は「写真の街」として有名になった。
- 上野俊之丞(うえの としのじょう)の次男である上野彦馬(うえの ひこま)が、ネグレッティ&ザンブラ社(Negretti and Zambra)の特派員でプロの写真家であったピエール・ロシエ(Pierre Joseph Rossier)から湿式写真を学び、日本人で3番目となる写真館「上野撮影局」を長崎で開業。同写真館では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。上野彦馬は鵜飼玉川・下岡蓮杖らと並んで日本最初期の職業写真家であり、著名人を多く撮影したことや日本初の従軍カメラマン(西南戦争)であったこともあり、写真家として非常に有名になった。ただし先に挙げたように鵜飼玉川や下岡蓮杖の方が開業がわずかに早かったため、日本初のプロフォトグラファーというわけではない。日本人で写真撮影に成功したのは、1857年の市来四郎(いちき しろう)らであるが、撮影を職業としたプロフォトグラファーになったという順では以下のようになる。
- 1861年:鵜飼玉川(うかい ぎょくせん)が江戸薬研堀で日本人初の写真館を開業し日本人初のプロフォトグラファーとなる
- 1862年:下岡蓮杖(しもおか れんじょう)が横浜で日本人で二番目となる写真館を開業し、二人目の日本人プロフォトグラファーになる
- 1862年:下岡蓮杖と同年、少し遅れて上野彦馬(うえの ひこま)が長崎で写真館を開業し、三人目の日本人プロフォトグラファーとなる
- 島霞谷(しま かこく)も江戸下谷(えどしたや:現在の台東区)で写真館を開いた。
- 1864年:木津幸吉(きづ こうきち)が箱館に北海道最初の写真スタジオを開業した。
- 1870年
- 1862年から現在の台東区で写真館を営業していた島霞谷(しま かこく)が44歳の若さで病死した。妻であったの島隆(しま りゅう)は夫の遺志を継ぎ、同年に群馬県で写真館を開業、これにより日本最初の女性プロフォトグラファーとなった。
- 上野彦馬の弟子であった富重 利平(とみしげ りへい)が熊本県で写真館を開業。その後多くの人物が日本各地で営業写真館を開業していった。
- 1871年:イギリス人医師、リチャード・リーチ・マドックスによって臭化銀をゼラチンに混ぜた感光乳剤が開発され、ガラス板に乳剤を塗ったゼラチン乾板が1870年代末期以降、湿式コロジオン法に代わり普及するようになった。ゼラチン乾板は感度も高く、また撮影者自身が用意しなければならないコロジオン湿板に比べて工場で大量生産し、あらかじめたくさん用意することができた。これによって、野外での撮影の機動性も飛躍的に高まったほか、これまでの感度では撮れなかった動く人々が撮れるようになった。
- 1873年:ヘルマン・フォーゲルが黄色と緑色に対する感光性を持たせる方法を発明、1878年には工業生産されるようになり、箱入りで購入し好きな時に現像できるようになり、その高い利便性から湿板写真を駆逐した。
- 1876年:日本における最初の写真版権保護に関する立法が、写真条例として制定された。その第1条には「凡ソ人物山水其他ノ諸物象ヲ写シテ願出ツルトキハ五年間専売ノ権ヲ与フヘシ之ヲ写真版権と称ス」とある。
- 1877年:1872年、カリフォルニア州元知事リーランド・スタンフォードは、当時議論されていた馬の脚運びについて「4本の脚全てが地面から離れる瞬間がある」という立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、一説によると最高で25,000ドルの勝負であったという話もある。スタンフォードはこれを証明するため、イギリスの写真家エドワード・マイブリッジに走る馬の撮影を2,000ドルで依頼したとされている。しかしこの高速度撮影を実現するためには、大口径レンズと高感度の感光剤が必要であった。レンズについては1843年にフォクトレンダーからペッツヴァールタイプF3.7が販売されていたが、感光材料であるコロジオン湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。そのためマイブリッジは写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、1877年の7月1日に馬の高速度撮影に成功、この写真は「ホース・イン・モーション」と呼ばれ、馬が走る際、4本の脚が全て空中に浮いている瞬間があることが証明された。ちなみにスタンフォードの依頼から成果を挙げるまでの5年という期間の間、マイブリッジは写真技術への取り組みのみならず、殺人事件も起こしており、1874年10月17日、マイブリッジは妻の愛人であるハリー・ラーキンス少佐を射殺した。 殺意が明らかであったにもかかわらず、裁判では正当防衛として無罪となった。 この殺人は周囲からはフロンティア的な正義として黙認された。
- 1882年:この頃にイギリスのカメラメーカーであったマリオンが「アカデミーカメラ」を発明、これが最初の二眼カメラとされている。ただしこの頃の二眼カメラはフィルムではなく乾板を使用していたため、大きく重く、現在の二眼レフカメラと異なり実用性に乏しいものであったため広く普及することはなかった。
- 1883年:東京浅草の写真家であった江崎礼二(えざき れいじ)がイギリスから輸入したゼラチン乾板を使っての撮影に成功した。ゼラチン乾板はそれまで主流であった湿板しよりも露光時間がさらに短縮されていたことで、それまで写真技師だけが撮影していた写真が一般に広まるきっかけとなり、この頃から日本でも写真撮影を趣味として行うアマチュア写真愛好家が現れ始めた。
- 1884年
- オーストリアの化学者ヨーゼフ・マリア・エーダーが感度を高くしたガラス乾板を発明、それに合わせて初めて写真機にシャッターが取り付けられるようになり、手持ち撮影が可能になった。
- ニューヨークのジョージ・イーストマンは紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、フォトグラファーたちは乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくてすむようになった。
- 1885年:カルビン・レイ・スミスが世界初の実用一眼レフカメラと言われる「パテント・モノキュラー・デュプレックス」を発売した。このカメラはミラーをシャッターとして使う構造で、その後1890年代にかけてさまざまな一眼レフカメラが作られた。
- 1888年:何枚も巻き上げては撮影できるロールフィルムが発明され写真撮影が劇的に容易になった。
- 1894年:日本最古の写真専門学校と言われる「写真講習所仮場」が創設された。
- 1900年:コダックがブローニーフィルムを使用する初のカメラ「ブローニー」を発売した。
- 1902年:写真家の鈴 真一(すずき しんいち)が弟子らと共に「女子写真伝習所」を設立。同校は女性に写真術を教える唯一の教育機関であり、「女子写真学校」とも通称された。当時は女性の入学者が少なかったため、実際には男子の入学も許可されていた。
- 1903年:コニカが日本初のアマチュア向け量産カメラとして「チェリー手提暗函」を発売。木製のボディに革張りがされ名刺判(54x83mm)の乾板6枚をあらかじめカメラに詰め、順次撮影していく簡易マガジン式カメラでした。
- 1925年:ドイツのエルンスト・ライツで研究開発を担当していたオスカー・バルナックは、1913年にプロトタイプの35mmカメラ(ウルライカ)を試作し、1925年に世界初の35mmフィルムカメラとなる、「ライカI」の生産を開始した。その後、ライツを追う形でコンタックスやコダックも35mm判カメラの生産を始めた。
- 1929年:ドイツでフランケ&ハイデッケ(現ローライ)が、フィルムを使用する初の近代二眼レフカメラとなる「ローライフレックスオリジナル」を発売した。これは同社がそれ以前に出していた三眼式ステレオカメラから撮影レンズを一つ取る形で開発され、スタイルは最初から洗練され、かつほぼ完成していた。これに対抗しツァイス・イコンは「イコフレックス」、フォクトレンダーは「スパーブ」を発売するが、ローライの完成度は圧倒的に高く、結局は後発のカメラメーカーによる二眼レフもローライに似ていった。
- 1934年:イギリスのドレスデンにて、オランダ人のヨハン・スティーンベルゲンが1912年に立ち上げたカメラ会社イハゲー(IHG:インドゥストリー・ウント・ハンデルスゲゼルシャフトの略)が、この年、「スタンダード・エクサクタ」を発表。これがロールフィルムを用いた近代的一眼レフカメラの最初となった。このカメラはバヨネットマウントによるレンズ交換式で、フォーカルプレンシャッターを装備しており、フィルムをレバー巻き上げし、裏蓋を開閉できるなど現代的一眼レフカメラの先鞭をつけた。127フィルムを使用し4×6.5cm判で8枚撮影できた。
- 1936年:ドイツに遅れること約10年、日本でもキヤノンが試作機である「カンノン・プロトタイプ」を経て、日本初の35mmレンジファインダーカメラ「ハンザ・キヤノン」の発売を始めた。ハンザ・キヤノンは、レンズ・ファインダー・マウント部は日本光学工業(現在のニコン)が担当していた。また「ハンザ」というのは当時の販売総代理店であった近江屋写真用品株式会社の商標名を契約上刻印したもの。
- 1948年:ニコンが初のニコン製カメラ「ニコンI型」を発売。ニコンI型ニコンカメラの初号機で「ニコン」の名前を初めて冠した製品でもあった。発売当初は「ニコン」として売られたが、後続のカメラと区別するため、後に製品名称に「I型」が追加されたという経緯がある。
- 1948年:東ドイツ・ドレスデンのツァイス・イコンが世界初のペンタプリズム式一眼レフカメラとなる「コンタックスS」を発売した。コンタックスSはその後広く普及するスクリューマウント形式のM42マウントを採用、フランジバック・内寸口径の国際規格を有する卓越したシステムカメラで、無数の世界中の各種交換レンズと互換性を有した。
- 1954年:カメラ・ウェルクシュテーテン・グーテ&トルシュから、プラクチナシリーズが発売され、近代一眼レフの先駆けとなった。
- 1957年:旭光学工業(後のペンタックス)が、クイックリターンミラーとペンタプリズムを両方搭載したアサヒフレックスIIbが発売した。
- 1960年:世界初のTTL露出計搭載一眼レフカメラ「アサヒペンタックスSP」を発表した(発売は1964年)。
- 1963年:東京光学(後のトプコン)が最初のTTL露出計搭載一眼レフカメラトプコンREスーパーを発売。それに続き「アサヒペンタックスPS」、1965年に「ニコンF」がフォトミックファインダーTを発売しTTL露出が浸透した。
- 1975年:イーストマン・コダックが磁気テープにデジタルの画像データを記録する世界初のデジタルカメラを発明。
- 1976年:キヤノンが世界で初めてCPUを積み電子化した「AE-1」を発売、世界中で爆発的な売れ行きを記録しカメラ業界に変革を起こした。
- 1977年:小西六写真工業株式会社(現:コニカミノルタ)が世界初のオートフォーカスカメラとなる「コニカC35AF」を発売した。愛称の「ジャスピンコニカ」で、テレビCMの「ピンボケさんさようなら…」は流行語となった。
- 1981年:ソニーがフロッピーディスクに「アナログ記録」する試作機「マビカ」を発表(※電子スチルビデオカメラと呼ばれ、現在のデジタルカメラとは記録方式が異なるため、正確にはデジタルカメラではなかった。
- 1981年:レンズ交換式カメラにおいても、オートフォーカスレンズが研究段階から実際に発売され始めた。
- 3月:リコーが世界初の市販オートフォーカスレンズとなる「AF リケノン 50mm F2」を発売した。AF リケノン 50mm F2はレンズ側で測距とレンズ駆動を行うAF方式で「リコー XR 6」とセットで販売された。
- 11月:旭光学工業株式会社が「PENTAX ME F + AF ZOOM 35-70mm F2.8」のセットが発売した。AF リケノン 50mm F2がレンズ内で測距を行なっていたのに対し、PENTAX ME Fではカメラ内でピント検出を行いマウントを通じてレンズ側のモーターがレンズを駆動させAFを行う形式であった。カメラ本体で測距を行うことから、PENTAX ME Fが世界初の市販オートフォーカス一眼レフとして知られている。
- 1985年:ミノルタが「α-7000」を発売した。オートフォーカス機能を搭載した一眼レフカメラとして大ヒットした。
- 1988年:富士写真フイルム(当時)がメモリーカードに記録するタイプとしては世界初のデジタルカメラ「FUJIX(フジックス) DS-1P」を発表したが発売には至らなかった。
- 1989年:イーストマン・コダックが現在のデジタル一眼レフの礎ともなるカメラ「コダック ECAM 1989」(120万画素)を開発したとされている(※ただしコダック ECAM 1989に関しては実際には翼れることがなかったことなどから詳細が不透明な部分もある)。
- 1990年: ニコンが精細静止画カラーカメラ(※こちらも初期のソニーの「マビカ」同様、アナログ記録であったため電子スチルカメラに分類される)「HQ-1500CI/1500CF」を発売。
- 1990年:富士フイルムが「FUJIX DS-X」を発売、デジタル記録され、かつ実際に発売された世界初のデジタルカメラとなった。
- 1991年
- この年の5月にコダックから「Kodak Professional DCS100」が発売され、これが実際に発売された世界初のデジタル一眼レフカメラとなった。日本では未発売。ニコンF3がベースで、専用のフォーカシングスクリーン、モータドライブ付きで秒2.5コマの連続撮影が可能、感度はISO100だった。センサーサイズは20.5×16.4mm、約130万画素CCDを搭載していた。撮影画像はケーブル接続によりモノクロ液晶モニター画面付きの「DSU」(Digital Storage Unit)に格納される方式だった。 DSUは200MBの容量で、150~600枚程度の画像が保存ができ、カラーとモノクロでの撮影が可能で、価格は20,000ドルで、合計987台が販売されました。
- カシオがデジタルカメラ試作機「DC-90」を2台開発、その大きさと発熱から社内では「重子」「熱子」と呼ばれた。
- 1994年
- 世界初の手振れ補正機構搭載コンパクトフィルムカメラとなる「Nikon ZOOM 700VR QD」がニコンから発売された。ニコンの手振れ補正機構の名称「VR(Vibration 振動:Reduction 減少)」はこの機種から伝統的に採用されている。Nikon ZOOM 700VR QDは、139(幅)×75(高さ)×71(奥行き)mmと、コンパクトフィルムカメラとしては比較的分厚くずんぐりとした形状で大きく、レンズ内手振れ補正を搭載した一眼レフではなかったので、手振れ補正の効果をリアルタイムで目視できたわけではなかったが、手振れ補正機構などが評価されかなりヒットした。
- アップルが「QuickTake 100」を発売。35万画素だった。
- 1995年:日本の各メーカーがデジタルカメラの発売を始めた。中でもカシオ計算機の「QV-10」は現実的な価格と実用性を備えた製品としてヒットし、現在のコンパクトデジタルカメラの原型とも言えるスタイルを確立した。
- 3月:カシオ計算機が「QV-10」を発売。定価6万5,000円
- 6月:リコーが「DC-1」を首都圏で先行発売
- 7月:キヤノンが「EOS DCS 3」を発売。開発はコダック・プロフェッショナルで定価198万円。総画素数130万画素
- 9月:ニコンがプロフェッショナル向けデジタル一眼レフカメラE2/E2sを発売。E2が130万画素で定価110万円。E2sが定価は140万円。富士写真フイルム株式会社(当時)と共同開発
- 1996年:富士フイルム、イーストマンコダック、キヤノン、ミノルタ、ニコンによって共同で開発されたAPS規格が登場した。APSは正確にはフィルムサイズのことではなく、新規格の専用フィルム (IX240)を使用した写真システム全体のことを指していた。APSシステムは従来普及していた135フィルムよりも様々な面で改良がなされていたが、その後のデジタル化の流れの中で消滅した。現在ではフィルムのAPS-Cの画面サイズに由来する「APS-Cセンサー」という名称が現在も残っている。
- 2008年:09月12日、パナソニックが世界初のミラーレス一眼「LUMIX DMC-G1」を発表。現代のレンズ交換式カメラの主流となるミラーレスカメラの歴史が始まった。
以上となります。
写真やカメラの発明の歴史の中で大きな変化となったものだけを取り上げていますが、それでも書ききれていない部分の方が遥かに多いため、ご興味のある方は個別に調べていただければと思います。
Reported by 正隆