フォトマスター検定の予想問題です。フォトマスター検定勉強法も掲載していますので、参考にして頂ければと思います。
過去の各級の予想問題のまとめ
合格目指してさっそく問題です!
難易度:準1級レベル
問:上の写真は20世紀に世界で最も複製され、一説には世界で最も有名な写真とも言われている、キューバの革命家、チェ・ゲバラの肖像写真作品、「英雄的ゲリラ」であるが、この写真を撮影したフォトグラファーは誰か?次の中から選べ。
① ロバート・キャパ
② ウィリアム・ユージン・スミス
③ アルベルト・コルダ
正解はこのあとすぐ!
■正解は③(アルベルト・コルダ)
キューバのフォトグラファー、アルベルト・コルダについて
革命家チェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)の肖像写真、「英雄的ゲリラ」を撮影したアルベルト・コルダ(本名:アルベルト・ディアス・グティエレス)は、1928年9月14日生まれのキューバ・ハバナ出身のフォトグラファーです。
コルダは、父親が持っていたKodak 35 RFを借りて、ガールフレンドの写真を撮り始めたことから、写真の世界へとのめり込んでいきました。
コルダ自身、「美しい女性と出会いたかったから、ファッションフォトグラファーを目指した」とフォトグラファーを目指した理由を語っていますが、実際コルダの二番目の妻はキューバの有名なファッションモデルでした。
コルダはウェディングや葬式を撮影するスタジオのアシスタントカメラマンとしてポートレート撮影を学び、その後プロのフォトグラファーとして独立、1953年に「スタジオ・コルダ」を設立します。
現代的な撮影を得意としたファッションフォトグラファー、コルダ
コルダはファッションを中心に、さまざまな撮影を行ないましたが、スタジオ・コルダの撮影は、当時の伝統的な写真スタジオとは一風異なるスタイルでした。
当時の写真スタジオの多くは、日本の多くの営業写真館と同じく、人工光源を使ったストロボ撮影が一般的でしたが、スタジオ・コルダでは、現代的な自然光を使用したポートレート撮影を得意としていました。
コルダは伝統的で想像力のない写真よりも、ユニークで創造的な写真を求め、その結果として、スタジオ・コルダはアートスタジオとしても有名になりました。
コルダに訪れたフォトグラファーとしての転機
そんなアルベルト・コルダに1959年、フォトグラファーとしての大きな転機が訪れます。
それが、1959年1月1日、フィデル・カストロ率いる反政府軍によって達成されたキューバ革命です。
フィデル・カストロやその同志であったチェ・ゲバラの思想に共感したコルダは、カストロ付きの写真家となり、カストロの行く先々に随行し、キューバ新政府の初期における姿を数多く撮影しました。
カストロとコルダの関係は親密で、一般的な上司と部下のような関係ではなく、キューバ政府のオフィシャルな写真家でもあり、良き友人でもありました。
カストロはコルダの写真を気に入っており、彼が写真を撮ることを自由に認め、コルダもまた彼らを撮影することを「単なる仕事ではなく、自らの写真は革命のためにある」とも考えていました。
アルベルト・コルダの「英雄的ゲリラ」はこうして撮られた
フィデル・カストロの右腕でもあったチェ・ゲバラの肖像写真、「英雄的ゲリラ」は、その翌年となるキューバ革命の翌年、1960年3月5日に撮影されたもので、「ラ・クーブル号爆破事件」の追悼集会におけるゲバラの表情を捉えたものです。
この追悼集会の際、ステージの後方にいたゲバラが、群衆の様子を見ようと、ふと前方に出てきた短い間に撮影されました。
というわけで、この問題の正解は、③の「アルベルト・コルダ」となります。
ちなみにアルベルト・コルダとチェ・ゲバラは同じ1928年生まれであるため、この時二人は共に31歳でした。
この時、アルベルト・コルダは、Leica M2にライカの90mmレンズを付け、コダックのPLUS-Xフィルムを使用して、縦位置と横位置を1カットずつ撮影しています。
Leica M2はご存知のように現代のM型ライカの流れを組むモデルで、50mm、90mm、35mmのファインダー枠を備え、装着レンズに従い自動で切り替わる、ファインダー倍率約0.72倍のレンジファインダーカメラです。
英雄的ゲリラの完成と爆発的な普及
「英雄的ゲリラの」元画像は下のようなものであり、余分な周辺部のトリミングなどを施して完成したものが、アイキャッチ画像にもなっている「英雄的ゲリラ」です。
当時アルベルト・コルダは、このカットを含めて新聞社に提出していますが、新聞社はコルダが撮影したこの写真ではなく、他のフォトグラファーの写真を採用したため、「英雄的ゲリラ」は長い間日の目を見ることはありませんでした。
そこでコルダは、「英雄的ゲリラ」のプリント2点をスタジオ・コルダに飾っていました。
その後「英雄的ゲリラ」に大きな転機が訪れます。
1967年初めにコルダはイタリアの雑誌社から、「チェ・ゲバラの肖像写真が欲しい」という依頼を受けます。
その際コルダは、スタジオ・コルダを訪れた編集者に、スタジオの壁にぶら下がっているプリントを指して、「チェ・ゲバラを撮影した写真の中でこれがベストのものだ」と答え、採用されます。
そして同年10月にチェ・ゲバラがボリビアで銃殺されたことで、世界中でゲバラの処刑を避難するデモが発生、「英雄的ゲリラ」はそのデモで数多く複製され使用されました。
またゲバラの追悼集会において、フィデル・カストロが巨大な「英雄的ゲリラ」の遺影の前で演説を行ったことなどで、「英雄的ゲリラ」は世界的に有名な作品となっていきます。
1968年にはアメリカのポップアーティストであるアンディ・ウォーホルが、「英雄的ゲリラ」をシルクスクリーン作品にしたことなどで、アイコンとしても有名になりました。
1970年代になると、「英雄的ゲリラ」は反戦運動などの象徴としても利用されるようになり、ファッション的な意味合いでも利用されるようになります。
アルベルト・コルダと「英雄的ゲリラ」のその後
アルベルト・コルダは「英雄的ゲリラ」に関して、
- チェ・ゲバラの事を語り継ぐ目的
- 世界平和のための活動に使用する場合
上記のような用途においては、複製の制作に反対しないこと発表、実質的に著作権を主張しなかったため、多くの二次制作物からもコルダが著作権料を得ることはありませんでした。
唯一の例外として、イギリスの酒造メーカーであるディアジオが、スミノフウォッカの宣伝に「英雄的ゲリラ」を利用とした際に、ゲバラ自身がお酒を飲まなかったこともあり、個人を冒涜するものだとして、コルダは訴訟を起こし、最終的にディアジオが5万ドルの和解金の支払いと広告を取りやめることで和解したというケースがありました。
しかし、コルダはこの時の和解金の5万ドルをキューバの医療保険制度に寄付、その理由として、「(医師でもあった)ゲバラなら同じことをしただろう」というコメントを残しています。
「英雄的ゲリラ」が世界的に有名になっていく一方で、コルダ自身はゲバラが亡くなった翌年(1968年)にカストロ付き写真記者の職を辞すると、その後はキューバの自然風景(特に水中写真)の撮影へと、写真家としての活動領域を変えていきます。
そして1980年代に入ると再びフッションフォトグラファーに復帰、アルベルト・コルダは2001年5月25日、72歳で亡くなり、彼の故郷であるキューバのハバナに埋葬されました。
というわけで今回は、「世界で最も有名な写真」とも言われる、チェ・ゲバラの肖像写真、「英雄的ゲリラ」と「英雄的ゲリラ」を撮影したフォトグラファー、アルベルト・コルダについてお話しさせて頂きました。
最後にチェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)の残した言葉を一つご紹介しましょう。
”もし私たちが空想家だと言われるならば、
救いがたい理想主義者だと言われるならば、
出来もしないことを考えていると言われるならば、
何千回でも答えよう、「その通りだ」と”
画像:Wikipedia
Reported by 正隆