皆さんこんにちは。
2021年09月21日(木)より、写真家ウィリアム・ユージン・スミスを描いた映画、「MINAMATA ーミナマター」が公開されています。
というわけで今回は、日本を愛し世界に水俣病の惨禍を伝えた偉大なフォトグラファー、ウィリアム・ユージン・スミスを生涯をご紹介させていただこうと思います。
なぜ彼は命がけの壮絶な取材に身を投じたのか?彼が水俣病患者と日本に寄せた想いとは一体なんだったのでしょうか?
■ウィリアム・ユージン・スミスの生涯
日本を愛し水俣病の悲劇を世界に伝えた写真家、ウィリアム・ユージン・スミス
ユージン・スミスは、1918年12月30日アメリカ、カンザス州に生まれました。
飛行機が好きだったユージン・スミスは13歳の時、飛行機の写真を買うためのお金を母親にねだりましたが、母親は写真を買うお金ではなく、カメラを息子に渡し、地元の飛行場に行って自分で撮るように勧めました。
そうしてユージン・スミスは飛行機を撮影するようになり、彼が撮影したフィルムを母親は自宅の簡易暗室にて現像してあげていました。
そんな母親の優れた教育のもと、写真にのめり込んでいったユージン・スミスは、15歳になる頃にはスポーツ写真なども撮影し雑誌に掲載されることさえあるようなレベルになっていました。
しかし彼の少年時代は良いことばかりでありませんでした。16歳になった時、彼の住むカンザス州を含めたアメリカ中西部を異常気象が襲い、農業が壊滅的な打撃を受けます。
穀物商であったユージン・スミスの父親は、この異常気象が原因で起きた大不況によって経営が破綻し、銃で自殺してしまうのです。
そのことをきっかけに、ユージン・スミスは人命や医療に関心を持つようになりました。
写真好きの少年から報道カメラマンの道へ
高校を卒業したユージン・スミスは卓越した写真の実績によりノートルダム大学に入学し授業料を免除されますが、18歳で突如退学してしまいます。
ニューヨークへ引っ越した彼は、週刊誌Newsweekの記者として働き始めます。Newsweekと言えば現在ではTIME誌に次ぐ全米2位の発行部数を誇る有名誌ですが、当時は出来て数年という新しい会社でした。
そこでユージン・スミスは完璧主義者・頑固者として知られることになります。
当時彼は135フィルムのコンタックス機を使っていたのですが、会社からより大きなフォーマットのカメラを使うように指示されたそうです。しかしユージン・スミスは135フィルムを使うこと(あるいは135フィルムのカメラ)に拘り、拒否したそうです。
135フィルムは1934年にコダックが初めて発売しているため、当時は発売されて数年のものでした。
最終的にユージン・スミスはそうした頑固さがたたってNewsweek社をクビになってしまうのですが、1939年からはこれまた有名なLIFE誌で仕事をするようになります。
戦場カメラマンとして激戦地へ
LIFE誌の水が合ったのかユージン・スミスはLIFEと長く仕事をすることになりますが、その陰には当時LIFEの編集者で多くのフォトジャーナリストを輩出したことで知られる、ウィルソン・ヒックスとの強い絆があったと言われています。
1943年09月ユージン・スミスは戦争特派員になりLIFE誌にも写真を提供しながら、第二次世界大戦の最前線で写真を撮っていました。
彼は日本に対する攻撃中の米軍に同行し、サイパン、グアム、硫黄島、沖縄などで米海兵隊と日本の捕虜を撮影しましたが、その中でユージン・スミスは戦争の残忍さを伝えることに関心を強めていきました。
1943年から1945年までの従軍カメラマンとしての経験の中で、ユージン・スミスの写真の才能は結実し、より高みへと昇華していったと評されています。
しかし1945年05月22日(当時26歳)の時、ユージン・スミスは沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の迫撃弾が炸裂し砲撃の爆風によって彼は左腕に大きな怪我を負い、口蓋が砕ける重傷を負うことになります。
ユージン・スミスはその怪我が原因で、約2年間の療養生活を送らねばならなくなりますが、その後も後遺症にずっと悩まされることになります。
療養期間中を振り返って、彼は「私の写真は起きたことの単なる報告ではなく、人間の精神や肉体を無残に破壊する戦争の告発であって欲しかったのに、その目的を達することが出来なかった」と述懐しています。
1946年ユージン・スミスは負傷後初めての写真を撮りましたが、それはニューヨークにあった自宅の庭を歩く子供たちを撮影したもので、タイトルは「The Walk to Paradise Garden」と名付けられました。彼にとって心を癒す期間であったのかもしれません。
人々の日常に献身の美を見つけたスミス
ユージン・スミスはその後しばらくは戦争や大きな事件の報道写真からは一歩引き、日常に潜む人間性や人々の生活の中の何気ない表情に興味を向け、1948年から1954年までLIFE誌でフォト・エッセイを連載していました。
その間の仕事をいくつかご紹介しましょう。
1948年08月ユージン・スミスはコロラド州クレムリンの町でアーネストセリアーニ博士を数週間撮影し、人口の少ない街で人々の命と健康のために尽力する医師の姿を撮影しました。
ウェールズでは、サウスバレーの鉱山労働者の生活に密着しその姿を撮影しました。
またスペインのエストレマドゥーラ州農村部の貧困のテーマにした写真は1951年04月のLIFEに掲載され高い評価を受けました。
ユージン・スミスのそうした仕事は多く人から注目されるようになり、世界一有名な風景写真家といっても過言ではない、かのアンセル・アダムスから賞賛の手紙をもらう事さえありましたが、ユージン・スミスはその手紙を宝物のように3年間も大切にポケットの中にしまったまま、気後れしたのか、ついぞアンセル・アダムスに返事を書くことが出来なかったそうです。
1951年には、LIFEの写真担当副編集長であったエドワード・クレイマー・トンプソンを説得し、サウスカロライナ州の田舎で働く助産師のモード・E・カレンの献身的な仕事を6週間に渡って夜明けから夕方まで撮影し続けました。
モード・E・カレンは米国南部で最も貧困に苦しむ地域の人々の看護に人生を捧げた看護師兼助産師で、後にその功績を称えられ、レーガン大統領からホワイトハウスに招待された際も、「自分にはやるべき仕事があるから」と招待を断っています。
ユージン・スミスは、モード・E・カレンの撮影を自分の仕事の中でも特に印象に残った撮影と語っており、彼女のことを「最高の人格者」と評しています。
この時の撮影はLIFEの1951年12月03日に掲載されました。
ただ、この頃からLIFE誌編集部との折り合いが徐々に悪くなっていたユージン・スミスは、1954年11月にLIFE誌に辞表を提出し、LIFEを去ることになります。
そしてユージン・スミスは次に、かの有名なマグナム・フォトエージェンシーに属することになります。
日本へ。
世界最高の写真家集団とも言われるマグナム・フォトで、ユージン・スミスはさらに様々な仕事をしていくことになるですが、その全てを紹介しているとキリがないので、ユージン・スミスが日本と深い関係を持ち、水俣病の取材にのめり込んでいく1970年代へと一気に時代を飛ばしましょう。
1970年ユージン・スミス51歳の時、ニューヨークのマンハッタンでアイリーン・スプレイグ(のちに妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会うことになります。
アイリーンは母親が日本人、父親がアメリカ人という混血で、11歳で渡米し、ユージン・スミスと出会った当時は20歳のスタンフォード大学の学生でした。
ちなみに富士フイルムのCMでユージン・スミスが登場した際には、アイリーン・美緒子・スミスが通訳を務めました。
出会って1週間後にユージン・スミスのアイリーンをアシスンタントに迎え、ニューヨークで同居するように頼みます。要するにユージン・スミスの一目惚れだったわけですね。
アイリーンもそれを承諾し、そのまま大学を中退、カリフォルには戻らずユージン・スミスと暮らし始めます。
そうしてアイリーンを通じて日本との縁が生まれたユージン・スミスに転機が訪れます。
同年秋、ユージン・スミスと親交のあった写真編集者の元村和彦が渡米した際、ニューヨークでユージン・スミスと会った元村和彦は彼に来日して水俣病の取材をすることを提案します。
1970年代は熊本県のチッソ株式会社の水俣工場による公害と、それに関連した水俣病訴訟が大きな話題となっていました。
そこでユージン・スミスとアイリーンはこの元村和彦の提案に応じ、翌1971年08月16日に水俣病の取材のために来日します。
その直後、8月28日にユージン・スミスとアイリーンは日本で結婚式を挙げ、アイリーンは正式にアイリーン・美緒子・スミスとなりました。
遂に始まった壮絶な水俣病の取材
スミス夫妻は水俣病の患者が多数いた熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、同年9月から1974年10月までの3年間、チッソ株式会社が引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を積極的に行いました。
その中でも、特に有名になった写真がこの母親が娘を入浴させる姿を撮影した、「入浴する智子と母」でした。
この写真はミケランジェラのピエタにも似た神々しさがあり、世界に水俣病の惨禍を知らせるきっかけとなりました。
その他にも多くの撮影を行ったユージン・スミスでしたが、この水俣病の取材は簡単ではありませんでした。
1972年01月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場をユージン・スミスが訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生します。
この暴行に巻き込まれたユージン・スミスもカメラを破壊された上、コンクリートに激しく叩きつけられ脊椎を折る重傷を負ったばかりでなく、カメラマンの命とも言える片目を失明します。
ユージン・スミスの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けましたが完治することはなく、また暴行の容疑者は不起訴処分となりました。
しかしこの事件をきっかけに、彼は水俣病患者の怒りや苦しみ、悔しさをより実感できるようになったと語っており、水俣患者の後押しを受けてさらに撮影を続けていくことになります。
この頃ユージン・スミスは1945年に沖縄戦の取材で受けた負傷の後遺症で固形物をほとんど食べられなくなっていました。それに加えてアルコール依存症にも苦しんでおり、毎日の栄養補給は牛乳10本とオンレジジュースに生卵を混ぜた飲み物だったそうです。
さらにサントリーレッドの中瓶を1日1本ストレートを飲んでいたそうです。ウィスキーをストレートで毎日1本は完全にアルコール依存症です。
チッソ五井工場で受けた暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、激しい頭痛にも悩まされたユージン・スミスは、妻であるアイリーンに「斧で頭を割ってくれ」と頼むことさえあったそうです。
それでもユージン・スミスは撮影を続け、1973年04月には西武百貨店池袋店で写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」が開催されました。
帰国。そしてMINAMATAの出版
そうして日本と世界に水俣病の悲劇を伝えていったユージン・スミスは、1974年10月取材を終え、3年間暮らした水俣市を去り夫婦でニューヨークへ帰国しました。
翌1975年05月には、妻のアイリーンとの共著で、悲願であった写真集「MINAMATA」を出版し、「MINAMATA」は世界中で大反響を呼びました。
その後アイリーンと離婚することになったユージン・スミスは、新しいパートナーであるシェリー・スリスと一緒にニューヨーク市のスタジオに引っ越しました。
しかし晩年のユージン・スミスはチッソ社員からの暴行の後遺症による神経障害と視力低下により、カメラのシャッターを切ることもピントを合わせることも出来なくなっていました。
健康状態が悪化していたユージン・スミスは、友人たちの勧めでアリゾナ大学の芸術学部とジャーナリズム学部の教授となり、教鞭をとることになります。
ユージン・スミスは1978年10月15日、自宅近くの食料雑貨店へ猫のエサを買いに出かけた際、脳卒中の発作で帰らぬ人となりました。
ユージン・スミスは火葬され、遺灰はニューヨーク州ハイドパークの墓地に埋葬されました。
チッソ社員に受けた暴行により後遺症に苦しみ最終的には写真を撮影することも出来なくなったユージン・スミスでしたが、最期まで日本や日本人を恨むことはなかったそうです。
報道写真に生涯を捧げた写真家、ユージン・スミス
2021年09月21日(木)より、ユージン・スミスを描いた映画「MINAMATA ーミナマター」が公開予定です。
というわけで今回は、日本を愛し世界に水俣病の惨禍を伝えた偉大なフォトグラファー、ユージン・スミスをご紹介させて頂きました。
最後にあえて報道写真ではなく、彼が撮影した風景写真「ワシントン山から眺めるモノンガヒラ川」をご覧頂ければと思います。ゴッホの「ローヌ川の星月夜」を思わせる美しい作品です。
Reported by 正隆